016 刹那に滲む翠色
両親との電話。二人の声がフラッシュバックする。
『愛してる』母の声。
『刹那を頼む』父の声。
心臓の鼓動が速い。しかし身体は金縛りにあったかのように、指一本動かなかった。
死んだ? 父と母が?
隣にいる刹那に目をやると、青ざめた顔で固まっていた。見たこともないほど濃い紫色を漂わせて。
叫び出したいのをギリギリで我慢しているような、全身を繋ぎとめる細い糸が切れないよう必死で堪えているような、そんな表情だった。見ていたくなかった。
――嘘だ。
こいつは嘘をついている。自分たちを動揺させようとしているのだ。
混乱に身を委ねてはだめだ。理性を手放してはだめだ。
父も母も死んではいない。
逃げなくては。刹那を守らなくては。
その時、朝の電話で耳にした父の言葉を思い出した。
『中にある物は、いざという時まで使うな』
翼斗は手の中に隠し持っていたアンプルを、迷わず自らの腕に刺した。ラベルに“2”と書かれたアンプルだ。
父がわざわざ持っていけといった金庫に入っていた、唯一の物。
それだけで十分だった。
「何をしてる! 余計な動きを見せたら撃つ!」
男が銃口を突きつけ威嚇する。
しかしその脅し文句は、翼斗には届いていなかった。
——死んだ。
そう錯覚するほどの衝撃を、翼斗は受けていた。
めまいとともに音と光が消えた。一瞬遅れて頭痛に襲われる——激痛。
脳に強力な電流を流されたようだった。意識が肉体から剥がされるような感覚に襲われる。
徐々に衝撃は収まり、音が戻り、視界が開けていく。
先ほどまでと同じ景色が見える。銃口を向けてくる敵。薄暗いトンネル。不安そうに翼斗を見つめる刹那。
自分は倒れたのではないかと思ったが、身体は微動だにしていなかった。
しかし一つだけ、変化していることがあった。
相手の思考が、読めた。
*
翼斗は戸惑っていた。
相手がいま何を考えているのかが、直感的に分かるのだ。
といっても、エスパーのように、言葉で読み取れるわけではない。色を感じるのと同様に、脳が直接感じている。相手の考えていることがイメージとして伝わってくるのだ。
先ほど打ったアンプルの影響であることは間違いない。
しかし。
それ故に、翼斗には分かってしまった。
この男が先ほど言ったことが、真実であると。
――お前たちの両親はもう死んだ。
翼斗は目の前が深紅色に染まるのを感じた。
「とっととしろ、ガキ。依頼人からは殺してもいいと言われてるんだ」
男が、あくまで無表情に淡々と、しかし有無を言わせない口調で言う。その声に、引き金を引くことに何のためらいも感じない冷徹さを滲ませていた。
しかし翼斗には分かっていた。
この男には、撃つつもりはない。殺すだなんて真っ赤な嘘だ。
撃つとしても威嚇だけで、当てる気がない。
それならば——勝てる。
今の自分なら、引き金を引く瞬間すら感じ取れる。
そこで隙を突けば、確実に自分が先に攻撃できるはずだ。
翼斗は金庫の入ったショルダーバッグのストラップを握りしめた。
弾道から外れる最短のルートで距離を詰め、ショルダーバッグで思いきり殴る。
それで勝てる。
――勝つ。父と母の命を奪ったこいつに。
――さあ引き金を引け。引けよ早く。
――よし、引くぞ。
――2、1。
――今だ。
「っ!?」
何が起きたのか、理解できなかった。
乾いた発砲音と同時に、視界が弾け飛んだ。
右肩から叩きつけられる衝撃を受け、地面に倒れたのだと分かった。
左から突き飛ばされた!
――誰に?
不吉な予感に、すぐ身を起こし振り返る。
そして予感の的中を知った。
刹那が倒れていた。
*
声にならない叫びを上げていた。
名前を呼んだつもりが、言葉になっていない。それが自分の声なのかどうかも怪しかった。追っ手の男のことなど頭から吹き飛んでいた。
刹那の元に駆け寄る。
横向きに倒れている刹那の上半身に、赤い色が染みわたっていくのが目に入る。
撃たれた。刹那が撃たれた。
刹那を抱き起こし、何度も名前を呼ぶ。
刹那が苦しそうに喘ぎながら、少し目を開けた。
生きている!
「刹那! 刹那!」何度も呼びかける。
「…………に」
刹那は何かを言おうとしたが、そこで咳込んだ。血が飛ぶのが見えた。
「しゃべらなくていい! すぐ病院に連れていくから!」
助けを呼ばなくては。
刹那が助かるなら、もう捕まってもいい。
翼斗が撃たれると思って、恐らく反射的に突き飛ばしたのだ。命を懸けて。
絶対に死なせない。
その時、刹那が翼斗の袖を掴んだ。
「…………」
何かを伝えようと、口を動かしている。
「刹那!? どうした!」
とっさに、刹那の口に顔を近づけた。聞かなくてはならない気がした。
「父さん、たちのこと、ほんとかな」
一呼吸ずつゆっくり、そう言った。
「嘘に決まってるだろ。絶対生きてる。また会えるから、俺が会わせてやるから」
そう言うと、刹那は微笑んだ。
痛みを感じていないのか、苦しそうな様子はなかった。
その頬笑みに、ぼんやりと淡い緑色が浮かんできた。
緑色は、信頼の色。親愛の色。感謝の色。
翼斗の視界が滲んだ。慌てて目を拭う。
「刹那、大丈夫だから」
何を言ってるんだ俺は。何が大丈夫なんだ。もっとマシなことが言えないのか?
なんだよこれ。なんで刹那がこんなに血を流してるんだ。なんで俺じゃなくて刹那が。
ついさっきまで呑気に笑い合っていたのに、なんで。
「兄ちゃん」
今度ははっきりとした口調で、しかしかすれた声で、翼斗を呼んだ。
「そんな顔しないで、笑って。
兄ちゃんが笑ってると、落ち着くんだよ、なんでかな」
刹那の身体から、力が失われていくのが分かった。
それとは逆に、緑が強く、濃くなっていく。
笑う? 笑うだって? こんな時になにを言ってるんだ。
落ち着くってなんだよ。落ち着いてる場合じゃないだろ。落ち着いてどうすんだよ。
そんなことより血が。血を止めなきゃ。血を――
「兄ちゃん、わらって」
その時、不可解なことが起きた。
翼斗は自分の意識が、ほんの束の間、飛んだように感じた。
怒りや悲しみや混乱のあまりに気を失ったのではない。
無限を感じさせるほどに広大な場所から、何者かの意識が翼斗の中に入り込んできたようだった。
――意識が戻る。
自分がどんな顔をしていたのかは分からないが、笑うなんてとても出来ないと思った。
「刹那、刹那」
馬鹿みたいに、繰り返し名前を呼ぶことしかできなかった。
しかし、刹那は笑った。
「ありがと、兄ちゃん」
刹那の身体から力が抜け落ちた。
滲んだ視界一面に広がっていた緑が、かき消えた。