GOLDEN AGE ~追跡屋TAG~

自作の連載小説をあげていきます。

017 闖入者

「…………刹那」

 刹那はぴくりとも動かなかった。
 気を失ったのではなかった。大切な何かが消えていた。
 刹那の肉体に宿っていたあらゆるものが、永遠に失われたのだと分かった。
 喪ったことを悟った。
 嘘みたいにあっという間だった。

 何も感じなかった。脳が思考を停止していた。
 指一本動かない。自分の身体が、すべての活動を放棄したかのようだった。
 動きたくなかった。考えたくなかった。認めたくないから。
 動いてしまったら、考えてしまったら、きっとこれが現実になってしまうから。

「おい」
 男の低い声が聞こえた。
 この世の物とは思えないほどに不快な声だった。
「恨むなよ。俺は外すつもりだった。そいつが自分から飛び込んできたんだ」
 たいしたタマだ、と男は言った。
 他人事のように。
「お前はこのまま連れて行く。お前まで逃したんじゃ、俺が消されるからな」
 立て、と翼斗に銃口を向ける。
 翼斗は、刹那の身体を静かに横たわらせると、よろよろと立ち上がった。
「よし、ついてこい。っと、その前にもう一人いたな。さっきのやつはどこだ?」
 エレベータの前にいた青年が、いつの間にか姿を消していた。
 男は辺りに目を配らせる。
 常に周囲に注意を配っていた。音もなく、気配も悟られずに逃げられるはずはない。
 エレベータはすでに到着していたが、その中にも青年の姿は見えなかった。
「どこへ隠れた! ……おいお前、ちょっと待ってろ。そこから動くなよ」
 男は青年の発見を最重要事項と考え、翼斗から銃口を外した。
 翼斗にはもう抵抗する気力はないと判断したのだった。

 しかし、その認識は甘かった。
 翼斗が突然、男に向かって駆け出したのだ。
 男は銃口を翼斗に戻す。翼斗が正気を失っているのが分かった。命を顧《かえり》みず、激情に身を委ねている。

 ——クソガキが。
 翼斗の足に狙いをつけ、引き金を引く。

 ごきん。

 銃声ではなく、鈍く重い音がした。
 頭に鈍器で殴られたような衝撃を受け、男の身体が宙を舞った。
 優に10メートルは吹っ飛び、全身を壁に叩きつけられる。
 普通の人間なら気を失うほどの衝撃だったが、男は気が遠くなるのを堪え、すぐに起き上がった。
 ——誰が!?
 視線を戻すと、翼斗が地面に転がっている。その脇に、男を吹き飛ばした犯人であろう人物が立っていた。
 それは姿を消していた青年だった。

 青年は自分が吹き飛ばした男には目もくれず、地面に突っ伏したままの翼斗に声をかけている。
「やっぱり君、面白いな。こんな綺麗な色は初めて見たよ。最初からそんな気がしてたんだ」

 ——こいつ、何者だ。

 男はその青年に、自分とは異なる種類の異質さを感じ取っていた。
 気づかぬうちに背後に回られ、恐らく、蹴られたのだ。ただの蹴りでこんなに人の身体が飛ぶとは信じられないが、自分と同じ種類の人間ならば、あるいは。

 ——すぐに殺すべきだ。

 生命線である銃は手離していない。
 男は手足が動くことを確認して立ち上がると、青年に発砲した。
 たかだか10メートルほどの距離だが、確実に仕留められるよう、胸を狙う。
 しかし銃弾は命中しなかった。
 逆側のコンクリートの壁に、小さな穴を空けただけだった。

 かわされた。まるでSF映画のように。

「弾は当たらないよ」
 青年はこちらを向いて微笑んだ。気の置けない仲間と雑談でもしているかのように。
 男は続けて2発発砲した。どちらも当たらない。
 また2発。3発。しかしすべて外される。
 男は気付いた。青年は弾をかわしているのではない。男が引き金を引く直前に、どこに弾が飛んでくるか知っているかのように、弾道から身を外しているのだ。
 撃たされている。そんな錯覚すら覚えた。
 気付くと、弾を撃ち尽くしていた。
「いくら撃っても当たらないよ。当たる方が難しいくらいだ。弾なんて、怖がらずによく見れば簡単に避けられるんだから」
「化け物が!」
 男は諦めず、予備の弾が入ったカートリッジを装填しようとする。
「むしろ、君の方が僕のことを怖がってるじゃないか。だからほら、見えてない」
 そう言って青年は男の右側を指差した。

 ごきん。

 今度は頭の右側に強い衝撃を受け、男は地面に再び地面に倒れ込んだ。男の頭から血が噴き出る。
 金庫が入ったショルダーバッグが、男の側頭部に衝突したのだ。翼斗が右側から回り込んできていることに、男はまったく気付かなかった。
 倒れた勢いで地面を転がって距離を取ろうとしたが、翼斗もそれに追いすがり、男の顔面に思い切り蹴りを浴びせた。

 ——これ以上はまずい。ダメージを負い過ぎた。

 三度も頭部への打撃を食らった男は、朦朧《もうろう》とした意識の中で撤退を決意した。
 あの作業員風の青年と、そしてこの少年も、只者ではない。このまま続ければ自分が返り討ちになる可能性が高い。そう判断した。
 ふらつきながら走り出した男を、翼斗が鬼の形相で追おうとする。
「待ちなよ、お兄さん」
 翼斗の前に青年が立ちふさがった。
「あんな奴は放っといて、僕と遊ぼう」
「どけ!」
 翼斗は青年を無視して男を追いかけようとしたが、次の瞬間、腕を取られて地面に叩きつけられた。動きを読む間もないほどの早業だった。
「妹さんを殺されて怒ってるんだろ。すごく特徴的な色をするんだね、君」
 青年は翼斗の腕関節を固めて地面に押さえつけながら、意味の分からないことを言った。
「離せ、てめえ……! ぶっ殺すぞ!」翼斗は地面に突っ伏したままわめいた。
 青年は「いいね」と笑うと、
「感情ってのは水物でね。どんなに荒々しい波を起こしても、放っとくとすぐに凪いでしまう。君のその激情だって、いまこの瞬間だけのものだ。別に意地悪したいわけじゃないよ。ただ君をもっと怒らせたいだけだ」
 そう淡々と言った。何を言っているのか理解できなかった。
「うん、純度が高い。素晴らしいね。普段は感情を出さないタイプだろ、君?
 分かるんだよ。よし、せっかくだから他の色も見てみようかな」
 青年は関節を固めている腕に力を込めた。激痛が走り、思わず声をあげる。

「腕と足を折るよ。憎き敵を逃がした上に、追いかけることすら出来なくなったら、どんな色を見せてくれるのかな」

 その声色から、脅しではなく本気だと分かった。
 力が加わる。翼斗の腕関節は限界を超えていた。
 折られる——