011 緊急コール
自分たちが危機的状況にあると確信したのは、翌日の午前6時頃のことだった。
時は2時間ほど遡る。
目を覚ますと、サイドボードに置いたWHDが振動し、着信音を響かせていた。
部屋の暗さからすると、まだ日も昇っていないようだった。
こんな時間にいったい誰だ?
WHDを取ると、父からの通話だった。
「もしもし……どしたの、こんな時間に」
『翼斗か、よかった。あまり長く話せないからよく聞いてくれ。今すぐ、刹那を連れて逃げろ』
――はい?
半分寝呆けた状態の頭に、切迫した様子の父の声が聞こえてきて、混乱する。
「逃げろって……何かあったの?」
『悪いけど、詳しく話してる時間がないんだ。後で全部話すから、とにかく今は逃げてほしい。危険が迫ってる。なるべく見つからないような場所に逃げて、隠れていてくれ。誰にも言わずにだぞ。警察にも行くな』
畳み掛けるように話す父に、いつもののんびりとした様子はみじんもない。確認したいことが多すぎて整理が追いつかないが、冗談の類でないことだけは理解できた。
何か、悪いことが起こっているのだ。
「わ、わかったよ。とりあえず刹那と今すぐ家を出るから。母さんも一緒? 合流はどうする?」
翼斗はWHDを腕に装着すると、ハンズフリー状態で会話をしながら身支度を始めた。寝起きのためか緊張のせいか、身体が思うように動かない。
『それは後からどうにかする。この会話も聞かれてる可能性があるから、余計なことをしゃべったらダメだ。母さんは無事だよ、いま替わる』
一瞬間が空き、通話先が母に切り替わった。
『翼斗、いきなりでごめん。こっちの心配はいらないから、父さんの言った通り、できるだけ急いでそこから離れてちょうだい。刹那のこと、よろしくね』
母の声を聞いて、翼斗は少し落ち着きを取り戻した。早口だが冷静な、いつもの頼れる母だ。
背後にゴーっという車の走行音、そして他の車の駆動音が聞こえる。どうやら二人で車に乗っているようだった。かなりのスピードを出していることが分かる。
「ああ。よく分からないけど、すぐに二人で家を出るよ。二人も無事で。じゃあまた後で」
通話を切ろうとすると、
『翼斗、ちょっと待って……なんというかさ』母が珍しく言葉に詰まりながら、何かを伝えようとしている。
聞きたくない。翼斗はそう思った。
『あんたは、何があっても母さんたちの息子だから。愛してる。刹那にもそう伝えて』
それだけ言って、母は通話を父に戻した。
『いいなあ、僕だって母さんに愛してるなんて言ってもらったこと一度もないぞ』
父はおどけるように言って、朗らかに笑ってみせる。
『翼斗、あと一つだけ頼む。クローゼットの奥にある金庫だけ持って逃げてくれ。そんなに重いものじゃない。暗証番号はお前の誕生日だ。あと、中にある物は、いざという時まで使うな……じゃあ、そろそろ切るぞ』
金庫? 暗証番号?
そんなことより、母の先ほどの言葉はどういう意味だ?
何かこちらも言わなくてはいけない気がしたが、言葉が何も出てこなかった。
『刹那を頼む』
ガチャっという乱暴な音がして、電話が切れた。
「…………なんなんだ?」
静寂を取り戻した部屋の中で、翼斗は少しの間呆然としていた。
あまりにも突然すぎるし、あまりにも不吉すぎた。
一つだけ確かなのは、どうやら何らかの危険がこの家に迫っているらしいということだった。
今はとにかく、言われた通りにしよう。金庫を持って、刹那と家を離れる。
翼斗は急いで刹那の部屋に向かった。
——アイシテル。
——セツナヲタノム。
父と母の言葉が、頭の中で何度も響いていた。
*
「うー、さぶい……ひやい……しばれる……」
刹那が翼斗の背後で呟く。手の震えが、置かれた肩を通じて伝わってくる。
刹那はニットのベストにダウンジャケット、ニット帽に毛糸の手袋という完全防備だったが、一番冷えるこの時間帯に風を受け続けるのはさすがに辛いのだろう。
時刻は4時半。まだ外は暗く、車もほとんど走っていない。
公共の交通手段はまだ運行していないため、自転車で移動することにした。
二人乗りを想定していないスポーツタイプのシティサイクルなので、刹那には後ろで立ったまま翼斗の肩に掴まってもらい、翼斗が漕ぐことにした。刹那も自分の電動自転車を持っているのだが、ずっと乗らないまま放置していたために電池が空になっており、充電している時間もなかったため、仕方なくそのようなスタイルを取ることになったのだった。
刹那を起こした後、金庫と、必要最低限の荷物だけを持ってすぐに家を出た。
金庫には何が入っているのか知らないが、かなり小型のものだったため、翼斗のショルダーバッグにすっぽり収まった。
「ねえ兄ちゃん、何があったの? どこに向かってるのさ?」
後ろから刹那が訊いてくる。
刹那には、ろくに事情を説明していなかった。というより、翼斗自身が事情を分かっていないので、説明できることがほとんどない。
夜明け前に叩き起こされ、理由も告げられずに「今すぐ急いで遠くに行くから早く起きて準備しろ」などと言われても、面食らうのは当たり前だ。ただでさえ寝起きが悪い刹那が、それでもさほど抵抗せずついてきてくれたのは、翼斗の切迫した態度に何かを感じ取ったのだろう。
家から離れるとはいっても、どこへ行けばいいか見当もつかない。
とりあえず、両親が務めている研究所とは反対の方向に向かって闇雲に自転車を走らせていた。父と母も同じように逃げているのだとすれば、両親がいたはずの場所である研究所から離れるということが、今のところ考えられる唯一の方針だった。
両腿の筋肉が悲鳴を上げている。風は冷たいのに、汗が滴り落ちる。
「兄ちゃん、もう1時間くらい走りっぱなしだけど大丈夫? ご飯とか飲み物とか要らない?」
刹那が気遣うように声をかけてくる。
気が付くと、空は少しずつ白んできており、車や歩行者もちらほら見かけるようになっていた。
現在地は分からないが、走り出してから1時間ということは、20キロくらいは稼いだはずだ。
「そうだな、さすがに疲れたし、あそこのコンビニで何か買おうか」
少し先に、コンビニの看板が見えていた。
この時間のコンビニには店員がいないはずだ。客がいなければ誰とも顔を合わせずに買い物を済ませられる。
何から逃げているか分かっていない以上、なるべく人の目につかないにこしたことはない。
「ふひー」
刹那は自転車を降りると、肩をすぼめながら店内に入っていった。翼斗も自転車を止めて後に続く。
そこで一瞬、嫌な考えが頭をよぎった。
警察に追われる犯人が、よくこうしてクレジットで買い物をして、それによって居場所がバレてしまう。映画や小説でよくある展開だ。
さすがに考えすぎだろうと思い直す。
警察に追われているわけではないのだから。