003 コヨリという少女
裏口を出て真っ直ぐ進むと、八百萬ジャンク・ショップと同じ敷地内に古い平屋が建っていた。周囲は背の高い塀で囲まれている。
「さて、ここから入るよ」
そう言って璃々は平屋の扉を開けた。
小上がりのついた玄関である。そこからいくつかの部屋に繋がっているようだが、事務所然とした感じはなく、普通の住宅の間取りだった。
どう見ても、ただの住居にしか見えない。確かにこれでは誰もここに事務所があるとは思わないだろう。
「いや、ここはただの住居だよ」
「え」
璃々は玄関の壁の一部分に手の平をつけた。
すると。
音もなく壁が開いた。隠し戸だ。中には地下へと続く階段が見える。
「すごいでしょ、静脈認証付きのばっちりセキュリティ。地下室は元々この家にあったんだけど、このシステムは私が作ったの」
これには翼斗も面食らった。
「外にトラップも仕掛けてあるから気を付けてね。いま歩いてきた場所以外は行っちゃだめだよ」
物騒なことをさらっと言いながら、スタスタと階段を降りていく。
隠し通路にトラップって……忍者屋敷かよ。
何重にも張り巡らされたセキュリティ。そこまでしなければならないほど恨みを買っているのだろうか。
「うぃっすー。お客さん連れてきたよー」
先に階段を降りた璃々が、軽い調子で挨拶をしながら部屋に入っていった。
翼斗も後に続いて入る。
中は、古い探偵小説によく出てきそうな、いわゆる応接室だった。
打ちっぱなしのコンクリート床に、大きなデスクにワークチェア。手前にマホガニーのローテーブルと黒い革張りのソファ。どれもそんなに高級そうなものではないが、何十年も使い込んだような味わいがある。また壁側のチェストの上には、さすがに飾り物だろうが、骨董的価値がありそうな古い黒電話や、これまたアンティークな造形の時計や天球儀が置いてあった。
REVERENCEの煌びやかな内装と違い、落ち着いたクラシックな雰囲気の部屋である。
しかし翼斗の目には、それらの一切が入っていなかった。
もっと驚くべきものが映っていたからだ。それも、天地がひっくり返るほどに。
とうとう自分の頭がおかしくなったのかと、本気で疑った。
「ハロー、コヨリン。いま一人?」
少女が一人、ソファに座ってゲームをしていた。
璃々の呼びかけに顔を上げたその少女は、刹那と瓜二つだった。
ここに来て、これほど心を揺さぶられるとは予想していなかった。
びっくり仰天の最高記録が更新された。混乱と混沌。
他人の空似、というには余りにも、似過ぎている。生き写しだった。
――本人?(そんなわけないだろ)
――まさか生き返って(漫画じゃあるまいし)
――大がかりなドッキリか(誰が喜ぶんだよ)
――ドッペルゲンガーとか(アホか)
――ついに幻覚が(それはやばいな)
――だってこんなこと(刹那は死んだ)
――あり得ない。
「おおい、どしたー。コヨリン怖がってるじゃん」
璃々の声で我に返った。
気付くとコヨリと呼ばれた少女は、璃々の背後に回り、警戒心をあらわにした眼差しでこちらを覗いていた。
驚きのあまり凝視しすぎてしまったか。
でもそれは仕方がないだろう。信じられないことは昨日から何度も起こっているが、《《これ》》は輪をかけて信じられない。
翼斗はまた少女の顔を食い入るように見つめていた。
璃々が何か言っているが、耳に入らない。
自分の心臓の鼓動がうるさい。
呼吸が上手くできない。
顔が燃えるように熱い。
ん?
あれ、なんかまずい――
…………。
「あっ」璃々が声を上げた。
視界がぐるりと回転するのを、しかし翼斗本人はすでに感じていなかった。
人生初の気絶だった。
*
ほんやりとした世界で、声だけが聴こえていた。
何を言っているかまでは聞き取れない。
女の声と、男の声。たまに少女の声。
黄緑色。黄色。オレンジ色。
早く目を覚まさなければ。
しかしどこか、このままここにいたい、と思っている自分もいた。
戻ると現実が待っている。恐ろしい現実が。
受け入れ難い、得体の知れない現実に飲み込まれてしまう。
戻りたくない。でも戻らなきゃ。
徐々に、声が具体的な形を帯び始める。
――ちょっと、やめときなよ。
――かまわねえよ、やっちまえ。
――らじゃあ。
翼斗のすぐ近くで、誰かが何かをしている。ごそごそと音がする。
そうだ、誰かに何かを頼むためにここに来たんだった。
起きなくちゃ。
翼斗が目を開けると、目の前数センチの距離に、般若《はんにゃ》がいた。
「ぶるあっ!?」
飛び起きた。というより、転げ落ちた。
(何だ!?)(何で般若!?)(敵か!?)
なんとか体勢を整えようとしたが上手くいかず、ドタバタと喜劇めいた動きになりながら、顔だけで振り向く。
翼斗が横たわっていたソファに眼鏡が落ちていた。
内側のグラスの部分に何か貼ってある……シール?
「ああ、私の眼鏡」
璃々が慌てて眼鏡を拾う。
「どうよ、コヨリ」
「まあまあ」
男と少女の声。
そちらに視線をやると、若い男と、コヨリと呼ばれた少女が並んで立っていた。
翼斗は何がなんだか分からず、しばらく口を開けたまま二人を見つめて固まっていた。
「あーあ、かわいそーに。目が覚めた瞬間にまた気失ったらどうすんのよ」
璃々が、少し笑いを含んだ口調で二人に言う。
男は「コヨリがどうしてもって言うから」と嘯くと、少女は「言ってない」と返した。
「ちょっと待って。待ってくれ。整理させてください。ええと、あんたたちは……」
「5時間もグースカ寝といて、今さら慌てんなよ」
男はそう言うと、翼斗がそれまで横たわっていたソファにどかっと腰を下ろした。少女も隣に座る。
「5時間!?」
そんなに長い時間、気を失っていたのか。蓄積した疲労が限界を超えて、気絶のついでに睡眠へと移行したのかもしれない。
男が胸ポケットから煙草を取り出して咥え、火を点ける。翼斗は紙の煙草を吸っている人を見るのは初めてだった。
「うちの娘をじろじろと舐めまわすように見てくれたって?」
男が細い煙を吐きながら言った。