GOLDEN AGE ~追跡屋TAG~

自作の連載小説をあげていきます。

退屈なクラゲ人間のモノローグ

 

 クラゲの気持ちになったことがあるだろうか。

 

 あるわけがない、という答えが大半だろう。

 そもそもクラゲには意識がない、という意見もありそうだ。

 クラゲに意識があるのかという点については、私自身も「ない」という立場なので、その意見には全面的に賛同するところではあるが、ここは実際問題としてではなく、思考実験として考えていただければと思う。

 

 もし、自分がクラゲだったら。

 

 宇宙にも匹敵する広大な海で、ただ漂うだけの存在。

 波に揺られ、海流に運ばれ、浮力と重力に翻弄され、時の流れをたゆたう。

 自分から世界に働きかけることはなく、ただ存在するのみ。

 海岸に打ち上げられるとか、外敵に捕食されることすら、ごくまれだ。

 人間である以上は、そんな経験をすることは、ほぼないと言っていいだろう。

 あるとすれば、植物状態と診断され、意識がないと思われているが、実は覚醒しているという悲劇的状態——いわゆるロックドイン症候群が、これに近いだろうか。

 植物とクラゲ。まあ似たようなものだろう。

 人間のためだけの恣意的な生物学的分類に用はない。

 

 そう。

 私は今まさに、その状態を生きている。

 時空という名の海に閉じ込められた、クラゲ人間。

 それが私だ。

 意識がないクラゲをうらやましく思う。

 地獄のような退屈を、終わりのない後悔を、彼らは感じることがないのだから。

 

 さて。

 私がこうして話をしているこの時代は、私の死から30年と少し前くらいだろうか。

 あの災厄が日本を襲う、少し前だ。

 「死」という表現が正しいのかは私にも分からない。

 生命は肉体に宿るのか、それとも意識か。後者ならば、クラゲは死んでいることになる。そしてこの私は、まだ生きているといえる。

 しかし人間としては、やはりどうしようもなく、私はもう死んでいるのだ。

 

 生命の定義など、今となってはつくづく価値のない議論だと、身に染みて分かる。

 自分が納得できる解答を見つければそれでよいだけの話である。

 それでも、我々人間がこの問題について考えを巡らせてしまうのは、進化の果てに想像力と創造力を獲得した人間が持つ、死への恐怖と克服という根源的な欲求によるものだろう。

 私は生前、それを追い求めた。

 死の無効化。命の定着化。永久なる安穏。

 

 狂気の沙汰だ。

 

 まあ、世界の真理を解明したいというただの知的欲求によるものではなかったかと問われると、確かにそれは否定できない。

 いや……もしかすると、それが全てだった可能性もある。

 私はただ、知り得ないことを知りたかっただけなのかもしれない。

 せいかぎりあり、しかしてかぎりなし。

 そう、私の狂気は届かなかった。私の野望は、叶わなかった。

 

 それにしても、30年とは、これほどまでに時代を感じさせるものだろうか。

 たかだか一世代の間に、この国も変わったものである。

 私が過ごした東京が特に変化の激しい地域であったことは確かだろう。

 しかし、それを抜きにしたとしても、やはり二十一世紀の前半というのは、人類史において類を見ないほど急激に進歩した時代だったといえよう。

 人類史において30年など、ほんの一瞬だ。

 ホモ・サピエンスの誕生から30万年と考え、これを一日に換算したならば、30年など10秒にも満たない。

 あの鮮烈で劇的な時代は、瞬く間に過ぎ去っていった。

 

 黄金の時代。

 

 宇宙史におけるビッグバンに例えるのはいささか大げさ過ぎるが、あの時代を境目に、指数関数的に進化のインフレーションが起こると仮定すれば。

 まさに、人類史におけるビッグバンの最初期と言っても過言ではない。かもしれない。

 

 私の意識がこの世界に捕らわれてから、どのくらいの時間が経っただろう。

 いや、時間が経っているのかどうかすら疑わしい。

 時間の流れも、時間の存在や価値も、この世界ではまったく違ってしまっているはずなのだから。

 こうなってみると、みじめで寂しくもある。

 私は時間を失った。

 人と触れ合える肉体も失った。

 人間としての在り方を失った。

 もちろん、それが失敗の代償として過大とはいえないことは理解しているつもりだが。

 そう。私は負けたのだ。

 あらゆるものに。私が捨てたものや、相対したものすべてに。時代や、世界や、人間に。それらすべてを含めた運命に。

 

 運命。

 私はこの、曖昧でご都合主義的な言葉は好きではない。

 ラプラスの悪魔量子力学によってとうの昔に退治されてしまったし、無神論者である私には、宿命論の考え方も受け入れ難い。

 しかし感情抜きで考えるならば、単に私が正解に辿り着けなかったというだけで、過去から未来までのあらゆる事象を決定付けている因果律のようなものが、科学的に証明可能な、世界を支配する一つの法則である可能性は否定できない。

 証拠の不在は、不在の証拠にはならない。

 以前の私なら一顧だにしなかったであろうそんな益体のないことを、気が付くと本気で考えてしまう。

 クラゲ状態は、あまり脳にとってよろしくないようだ。

 

 何にせよ、こうなってしまった以上、すべては詮無きことである。

 私がいま現在見ているもの、感じていること。それらを解析し、仮説を立て、法則を見つけ、数式に起こして理論化する手段は、もはや残されていないのだから。

 事程左様に、私にできることは限られている。

 こうしてこの世界を無為に漂うことにも飽いてきたところであるから、ここはひとつ語り部としての役割でも果たすことにしようか。

 クラゲ人間でも、話すことだけは出来るのだ。

 

 私には文学的素養は無いし、最初のうちはどうしても説明が多くなってしまうだろう。

 しかしなるべく聞き手が飽きないようなストーリーテリングを心がけるつもりだ。

 最後までお付き合いいただければ、幸いである。

 

 将来、私のような頭抜けた愚か者が再び現れて世界の真理を解き明かすことに成功したならば。

 あるいはこの物語によって、私は先駆者としての評価をもらえるかもしれない。

 

 そんな馬鹿らしいものは、欲しくもないのだが。