GOLDEN AGE ~追跡屋TAG~

自作の連載小説をあげていきます。

022 別れ 【第一章 完】

 ——弔う。

 そんな言葉は、自分には縁遠いものだと思っていた。
 いや、実際に昨日まではそうだったのだろう。
 朝食を作り、両親を見送って、妹と学校へ行き、クラスメートと雑談し、夕食の買い出しをして、だらだらと時間を潰して、なんとなく眠りにつく。
 そんな怠惰で平凡でかけがえのない日々。
 ……かけがえがないことにすら、気付いていなかった。

 翼斗は墓地に来ていた。
 墓地といっても、寺や教会、霊園などが管理運営するようなちゃんとしたものではない。アンダープレートの外壁の一部をくり抜いて作られた、共同墓地だった。下のフロアには火葬場もある。
 広大なスペースのあちこちに盛り土がされており、墓石の代わりに大きな石や板を張り合わせた十字架などが置かれていた。下層で亡くなった者たちの、終の棲家である。
 その中の一部のスペースを借りることにした。
 費用は柏木が用立ててくれた。墓地とはいっても儀式や手続きは一切なく、埋葬すら自分の手で行うということだった。こんな日の当たらない地中深くには、神の威光も届かないのだろうか。
 出来るだけ見晴しのよい場所を選んだ。墓地は高台にあったので、絶景ではないにしても、下層の景色がよく見渡せた。

 本当は、すべてが解決した後に、両親の分と一緒にちゃんとした供養をしてやりたかった。しかしそれは当面、叶わないらしい。
 この後の身の振り方について柏木に訊かれ、少し考えてから「警察へ行く」という選択肢を示した翼斗に対し、「絶対にダメだ」と言われたのだ。

『君の身の安全を警察が守ってくれるわけではない。メディアに嗅ぎつけられる可能性もある。警察が敵を捕まえるより君が捕まる方が早いだろう』
 そう柏木は言った。

 後から知った話では、この柏木——柏木冬衛(かしわぎとうえ)と名乗った——は、REVERENCEの先代であるとともに、創始者でもあった。
 今から13年前、下層の裏社会の顔役だった柏木が、反政府組織としてのREVERENCEを設立。社会に不満を抱く者たちを中心に構成員を増やし、勢力を拡大していったということらしい。
 最終的に国も手を焼くほどの存在になったのだから、その手腕はかなりのものだろう。
 それほどの人物と翼斗の両親の間にどのような関係があるのかについては、結局教えてもらえなかった。

 彼はこうも言った。

『せっかく永らえた命を無駄にしたくないのなら、地上に戻ってはいけない。至るところに監視のネットワークが張り巡らされている。下層に留まり、身を隠すことがまずは最優先だ』
『そのまま逃げてもいい。しかしその場合は、一生逃げ続けることを覚悟しなければならない。逃げることは、捕まることでしか終われないからだ』
『もし君が決着を望むなら、こちらから敵を見つけ出して、叩きつぶすしかない』
『泣いて許しを請う相手の頭を踏みにじってやれ』
『笑いながら崖から蹴り落としてやれ』
『それを可能にする方法を、一つだけ教えてやる』

 信じていいのかも分からない。
 やはり上に戻って警察に駆け込んだ方がいいんじゃないかという気もする。
 しかし翼斗はそうしなかったし、恐らくこの後も、そうしないだろう。

 REVERENCEからここに来るまでは、シュノーと陸が送ってくれた。
 シュノーは面倒そうな顔をしていたし翼斗も固辞したのだが、一人で刹那を背負いながらあの界隈を歩くのは危険とのことで、柏木が二人に指示したのだった。
 墓地の入り口で二人と別れる時、言葉を交わしたのを思い出す。
「陸さん、ありがとうございました。この辺で大丈夫です」
「礼はいい。次に会うとき10万よこせ、です」
「おい、俺に礼はねえのか」
「あんたは嫌いだ」「殺すぞガキ」
 もうその面見せんなよ、と憎まれ口をたたいてシュノーは去っていった。陸は何も言わなかったが、翼斗を心配そうに見ていたのが印象に残った。
 あの二人は、きっとREVERENCEでもそれなりの地位なのだろう。なんとなく、風神雷神像が思い浮かんだ。REVERENCEの風神と雷神。

 ざくっ、ざくっ。
 シャベルで土をかき出す。これくらいで十分だろう。
 翼斗は刹那の骨が納まった小さな箱をゆっくりと持ち上げると、穴にそっと降ろす。
 柏木は埋葬も手伝おうかと言ってくれたが、翼斗はその申し出を断った。
 刹那の最期のお願いを、翼斗は聞いてあげることができなかった。
 今となっては、これくらいしかしてやれることもない。

 ——ごめん、刹那。やっぱりまだ笑えない。

 穴に土をかぶせ、シャベルで叩いて固める。
 十字の形に打ち付けられた木の板を、奥側の地面に刺す。安っぽい十字架だった。
 交差している部分に花の形をしたネックレスをかけ、突端にニット帽をかぶせる。
「また来るからな」
 そう言って翼斗はその場を後にした。これ以上いると、余計なことを考えて動けなくなってしまいそうだった。

 当面の目的は出来た。柏木からもらったメモを開く。
 そこには、地図らしきものが描かれていた。
 小学生の落書きのような稚拙な図だった。わざとじゃないかというくらい読みにくいその地図の真ん中に、星マークがついていた。

 その地図を翼斗に渡す時、柏木は言った。
『ウサギを追うライオンは、自分がハンターに狙われてることに気付かないものだ。追われているなら、その状況を利用すればいい』
『お前が捕まえるんだ』
『こいつらが、きっと助けになってくれる』

 その星マークの横には、こう書かれていた。

「追跡屋 TAG」


第一章 完

021 柏木という男

 説明を聞いてアネサンボスはしばらく黙っていたが、
「いくつか質問するぞ。一つ目、イツキはどこに行った?」と訊いてきた。
「さあ。別の男に追いかけられて、トンネルから出て行った。その後の行方は知らない」
「二つ目。事故のニュースはさっきアタシも見た。あれが殺しだっていうなら、親御さんが狙われる心当たりは?」
「ない。父さんも母さんもただの科学者だよ。狙われる理由なんてない」
 翼斗の脳裏に一瞬、金庫に入っていたアンプルのことが浮かんだ。
「ふうん。じゃあ三つ目、その追っ手の男は自分のことを何か言ってたか?」
「いや、言ってなかったと思う。ただ」
「ただ、なんだ?」
「イツキに、『追われてるならWHDを外せ』って言われたんだ。でも仮にWHDの位置を追跡されたんだとして、そんなことが普通の人とか組織にできるものなのかなって」

 WHDによって位置が知られたと決まったわけではないが、いわば逃亡のプロであるイツキがそう言ったのだから、その可能性は十分にあると考えてよいだろう。
 そして同じ裏社会に生きる彼女らであれば、何か心当たりがあるかもしれない。

「あん? そんなもん誰にだって出来るだろ。普通に出回ってるWHDならな」
「え?」
 呆れたようなアネサンボスの言葉に、翼斗は耳を疑った。
「ハッキングの基礎さえ知ってりゃ楽勝だ。うちだって当然出来るぜ」
「………」
 翼斗は愕然とし、そして自分の無知を恥じた。
 そんなに簡単なことだったとは。もしそのことを知っていれば。知らなくても思い当っていれば。WHDを早く外していれば。
「じゃあ最後の質問だ」
「……はい」

「その鞄には何が入ってる?」
「えっ?」

 翼斗はその質問に、一瞬体を固まらせた。過剰に反応してしまった。
「いや、普通に、着替えとか色々だよ」
 誤魔化そうと平静を装ったつもりが、腐った大根のような演技になった。アネサンボスの眼差しは、完全に翼斗を疑っていた。
「バレバレだっての。ずっとその鞄を気にしてたろ。その感じだと結構な重量のあるもんが入ってるな? いいか、あたしに隠し事なんて百年早いんだよ、この間抜け」
 アネサンボスがシュノーと陸に目配せした。
 二人が素早く動き、翼斗を押さえつけた。鞄を開けて中身を取り出そうとする。
 抵抗するが、二人の力は凄まじく、身動き一つできそうにない。腕力で押さえつけられるのは果たして今日何度目だろう。二重の無力感を味わう。
「やめてくれ! ちゃんと見せるから!」
 アンプルを持って行かれたら、すべての糸が切れてしまう気がした。敵の正体に繋がる糸も、両親が残してくれた理由も。
「なんだこりゃ、金庫か?」
 シュノーが鞄の中を覗いて言う。その時、

「その辺にしておけ、お前たち」
 上から男の声が聞こえた。初めて聞く声だった。

「トコネ、話は聞いていた。この件は私に引き取らせてくれ」
 見上げると、二階部分に、初老の男が立っていた。今までどこにいたのだろう。まったく気配を感じなかった。
「じい、いたのかよ。引き取るってどういうことだ?」
 トコネ、と呼ばれたアネサンボスがそう訊くと、初老の男はゆっくりと階段を降りてきた。
 銀髪で、年齢は50から60くらいに見える。背筋をぴんと張って白のスーツを着こなすその姿は、下層に不似合いな気品と風格を漂わせていた。

 シルバー。この年代の人を指して、そういう呼び方をする場合がある。翼斗がその男にその表現を連想したのは、その髪色のせいだけでなく、彼の周囲に漂っている灰色の霧が視えたからだった。
 薄暗い灰色。木を燻した時のような、煙のような色。
 なかなか見ることのない、珍しい色だった。

「ヒイラギヨクト」
 翼斗はぎょっとした。初老の男がいきなり、翼斗をフルネームで呼んだのだ。
 射貫くような眼差しを、まっすぐ翼斗に向けている。
 ここに来てから、名乗ってはいないはずだ。
「何で俺の名前を……」
「君の両親とは旧知の間柄でね。先ほどニュースを聞いて驚いた。本当に残念だ」
 そう男は言った。

 父と母が、この男と知り合い?

「じい、どういうことだ?」アネサンボスが、焦れたように訊き直す。
「どうもこうも、今言った通りだ。この子の亡くなった両親は私の知り合い、というよりも恩人に近い存在だった。せめて下層に逃げ延びてきた息子の面倒くらいは私が見てやりたい。それにトコネ、お前今は忙しいんじゃないのか? ディックの件の後始末が残ってるはずだが」
 アネサンボス、改めトコネは、そう言われてむくれたような顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
 トコネがボスだとしたら、男はそれと同じか、より上の立場の人間だろうか。少なくとも、この場にいる人間からは信頼され、尊重されているようだった。
 シュノーと陸がトコネの様子を見て、翼斗を解放する。
「父さんたちと知り合いだって? あんた一体……」
「なめた口聞くんじゃねえ、ガキ。先代のボスだ」
 そう言ってシュノーが翼斗の頭を小突く。
 先ほど肩を強く押さえつけられていたせいで、まだ肩にも痛みが残っていた。翼斗はシュノーをにらみつけたが、シュノーは翼斗を見もしない。
 しかし、それを聞いて納得した。
 先代のボスという肩書きが、その男にはしっくりくる。
 だとすると、両親とREVERENCEの先代のボスとの間に、どういう繋がりあるというのか。翼斗を知っているということは、どこかで会ったことがあるのか。
「悪の組織じゃあるまいし、ボスはやめろというのに。私は柏木という。翼斗くん、話はあとにしよう。まずは……」
 柏木と名乗ったその男は、翼斗の肩に目を移した。

「その子を弔ってあげるんだ。丁重に」

020 REVERENCE

 

 生暖かく湿った風が頬を撫でる。
 地中深く閉ざされたこの空間の、一体どこから風が吹いてくるのだろう。

 翼斗は二人の男について歩いていた。
 看守に連れられて死刑台へ向かう囚人の気分だった。
 どこへ連れて行かれるのか分からなかったが、刹那を背負ったままでは、とりあえず男たちの言う通りにするしかない。
 遠くに、アンダープレートの中央に大黒柱のようにそびえ立つ中央エレベータが見える。外壁の向かって右側に“N”、左側に“E”の字が書かれているので、北東方向の奥に向かって進んでいるのだと思われた。
 北東。足を踏み入れてはいけない領域。

 二人の男は、話しながら歩いていた。
「これ、二人とも戻る、必要か?」
「じゃあお前が残れよ。ボスには俺から報告しとくから」
「おてまえが残りやがれ、です」
「よし、お前が残るんだな? いま『お手前』って言ったよな」
「お前が残れ」
「言えるのかよ! 実は喋れるだろお前。というか、てめえはボスと話したいだけじゃねえのか」
 翼斗はしばらく聞き耳を立てていたが、参考になりそうになかったので聞くのをやめた。

 改めて二人の男を観察してみる。
 シュノーという名の男は、戦車のような男だった。
 極めて凶悪な人相をしている。眉毛が片方なく、あると思ったもう片方の眉毛は、よく見たら切り傷の痕だった。体つきも異常だ。アメリカンコミックのような隆々とした筋肉。タンクトップから露出した肌のあちこちから傷痕が覗いている。
 もう一人の東洋人の男は、陸天祐と名乗った。
 切れ長で鋭い目つきをしている。痩身だが歩き方や所作には隙が無く、その全身が一振りの日本刀(青龍刀?)であるかのような存在感を放っている。触れた瞬間に手首を斬り落とされそうだ。
 元傭兵のヤクザと凄腕の暗殺者が並んで歩いている。そんな風に翼斗には見えた。
 心の中で、児玉に悪態をつく。何が「栄養不足でガリガリ」だよ。

 REVERENCE——その名を聞くのは今日だけで二度目だ。
 下層を実効支配しているといわれる組織の名前。
 追っ手に自殺犯に、お次はヤクザ。
 翼斗は、この悪夢はまだ終わっていないのだと悟った。

 連れてこられたのは、入り組んだ細道を抜けた先に現れた倉庫街だった。
 大きなレンガ造りの倉庫やガレージが、縦横に並んでいる。いったい何棟あるのか見当もつかないほどの広さだった。
 悪の組織の根城というには無機質ではあるが、いかにも裏取引でもしていそうなピカレスクな雰囲気を醸し出している。
 そこかしこに男が立っており、シュノーと陸に連れられている翼斗に目を向けてきた。
 どの男も、人を殺したことがあるような顔つきをしている。

「入れ」
 そこは、一番奥まったところにある、ひと際大きなガレージだった。しかし大きさ以外は、なんてことのない普通の寂れた倉庫である。
 シュノーに促されて中へ足を踏み入れる。
 すると、別の空間にワープしたような錯覚を覚えた。

 最初に目に入ったのは、天井から吊るされた大きなシャンデリア。空間の大きさに不釣り合いに大きく、派手だった。
 内装は、バロック調だかロココ調だかの中世ヨーロッパ風の様式で統一されていた。きらびやかな装飾が施された調度品や彫像が壁に沿って並び、暖炉(ガレージに暖炉!?)の上にはアラベスクのような絵画が置かれ、顔を上げると壮大な天井画が一面に広がっている。
 はっきり言って、センスの悪い貴族趣味だった。
 悪名高いREVERENCEの根城というならば、もっと退廃的で無造作か、重厚でハードボイルドな感じであるべきじゃないのか。
 敵の目を欺くとか、何かの意図があってあえてそうしているのだろうか。

 それだけでも眩暈を覚えたが、違和感だらけの光景の中で、さらにひときわ異彩を放っている人物がいた。
 入り口から向かって正面に真っ直ぐに敷かれたレッドカーペットの、一番先。少し高くなっている部分に設置された大きくて大げさな椅子に、女が座っていた。
 裾が短い着物をさらに着崩し、足を組んでこちらを見据えている。
 この内装と和服の組み合わせは、あまりに不似合いで滑稽に見えた。
 情緒のかけらもない。

「なんだそいつは」

 女が、シュノーと陸に問いかけた。
「こいつが死体を連れてふらふらしてやがったんで、連れてきた。俺が捕まえた」
「何時間もこのまま歩いてたらしい、です。話は聞いたですが、アネサンに直接聞かせた方がいい思って連れてきた、です。見つけたのは俺」
 シュノーと陸が競い合うように報告する。
「アネサンはやめな、ルウ」女が鋭い口調で陸を咎めると、続けて翼斗に向けて、
「その背中の娘、死んでんのか。なに考えてんだ、お前?」と言ってきた。

 陸がアネサンと呼んだということは、この女がREVERENCEの長だというのか。
 まるで玉座のような場所に座ってふんぞり返っている様は、確かに「ボス」という感じではある。しかし、それにしては若すぎる。せいぜい20歳前後にしか見えない。声色や醸し出す雰囲気も迫力はあるが、どこか背伸びをしているようにも見えた。

「ガキ、ボスが訊いてんだ、答えろ」シュノーが翼斗の肩を押した。
「なに考えてると言われても……なにも考えてない。なにも考えてないから、ここで今こんなことになってるわけで」
「なんだそりゃ。いいからワケを話せよ。残らず簡潔にな。あと、その前にその娘を降ろせ」
 アネサンボスにそう言われたが、翼斗は首を振った。
「こんな冷たい床に、寝かせたくない」
「ああ? だから、そのままじゃ寝かせることもできなくなるってんだろボケ」
 その言葉の意味するところが分からず戸惑っていると、後ろから陸が、
「死後硬直。死んで7時間もすると、手足固まるが始まる。ちゃんと送ってやりたいなら、寝かせておかないと、その姿勢で固まってしまう」と翻訳してくれた。
 WHDで時間を確認すると、いつの間にか正午近くになっていた。
「まだ、5時間くらいだよ。すぐに出て行くから問題ないだろ」
「出て行ってどうするつもりだ? 後先考えてもの言えよ、ガキが」
 シュノーが苛立つように言った。
 何と言われようと、翼斗はこの場に長居するつもりはなかった。たとえREVERENCEの連中が敵ではなくても、決して味方ではない。早くどこか落ち着ける場所を探して、刹那を休ませてやらなくては。そう思った。
「いいさシュノー、面倒だ。そのままでいいから話しな」
 アネサンボスのお許しをもらい、翼斗は先ほどシュノーと陸にしたのと同じ説明をした。例によって、金庫のこと、アンプルのこと、それを打った時のあの異常な感覚のことは伏せた。

 

019 シュノーと陸

 何もかもに現実味が無かった。
 作り物の世界で、誰かが作ったストーリーの登場人物になったように思えてくる。
 いつか昔の映画で観たことがある。かりそめの生活、与えられた日常を本物だと信じ込んだ一人の男の生き様を世界中の人々が見て笑っているという、まさにあの主人公のような気分。道化もいいところだ。

 ——ソウダ、コンナノウソダ。

 貨物用エレベータで下層へと降りてから、あてもなく歩き続けていた。
 目的地などない。目的を失ったのだから。
 昼間だというのに、アンダープレートは薄暗く感じられた。100メートル以上の高さに天板があり、空を塞いでいる。そこから人工照明が全域を照らしているのだが、地上と違い、鬱々とした、無機質な明るさだった。
 辺りには、安普請の建物やあばら屋が並んでいる。朽ち果てた建物の残骸。打ち捨てられた自転車。道端に座り込み中空をじっと見つめている痩せこけた老人。
 無味無臭で無色、無感情で無感動の世界。
 地上では決して見ることのない光景だった。ネットなどで見たことはあったが、実際にこの目で見ると、まるで別の惑星に来てしまったような錯覚を覚える。

 しかしそんな下層の様子を目にしながら、翼斗は何の感傷も抱いていなかった。
 大脳の情動を司る神経回路が麻痺しているようだった。
 昨日までは、何の変哲もない、普通の日常だったはずだ。それが一日で、たった半日でこの有様とは。

 ——ウソニキマッテル。

 あまりにも馬鹿げている。常識の範疇ではない。
 やっぱり、あの曖昧な夢の続きを彷徨っているだけなのではなかろうか。
「なあ、刹那?」
 背中におぶった妹に声をかけるが、返事はない。

 ——ウソジャナイ?

 翼斗は刹那をあの場所に残していくことができず、亡骸《なきがら》を背負って歩き続けていた。
 下層のどの辺りを歩いているのか、見当もつかないし、どうでもよかった。
 そういえば、あの親切な青年……イツキだったっけ?……が言っていた。
 北側と東側には近寄るな、と。

「近寄ったら、どうなるってんだよ」

 痛めつけられる? 身ぐるみを剥がされる?
 何が起ころうと、今よりひどい状況なんて考えられない。
 地球上で他に一人でもこれ以上の不幸に遭っている人間がいるとは思えない。
 なんで自分がこんな目に合わなければいけないのか。
 これが嘘じゃないなら、あまりに理不尽すぎる。不条理すぎる。
 自分たち家族がいったい何をしたというのか。
 あの人の良い父と、正義感の強い母と、優しい刹那が。

 ——ふざけるな。

「おいてめえ、何やってんだ」
 後ろから急に肩を掴まれた。
 暗く煮えたぎった感情を爆発させるのに、ちょうどいいタイミングだった。
 掴まれた方に向き直るその勢いで、思い切り相手の顔面に向けて拳を放った。反動で刹那の身体がずれ落ちそうになる。

(おいおい、最低だなお前)
(もう死んだ方がいいんじゃない?)

 冷めた頭の中のどこかから、そんな自嘲の声が聞こえてくる。
 拳が相手の頭部に命中し、拳に痛みが走る。
 まるで岩を殴ったような感触だった。
 相手は倒れるか、怒り狂って殴り返してくるだろう。どっちでもいい。どうにでもなればいい。いっそ殴り殺してくれないだろうか。

 しかし、何も起こらなかった。

 相手の男は、翼斗の拳をまともに受けながら、ピクリとも動かなかった。眉一つ動かさず、翼斗をただ見ていた。翼斗のパンチなど気付きもしなかったかのように。
 恐らく、蚊が止まった時の方がましな反応をするだろう。

「威勢がいいな、クソガキ。その後ろのは何だ?」
 その短い金髪の男は、背負われている刹那を見て言った。堪能な日本語だが、西洋系の、いかつい顔立ちの男だった。
「シュノー。そいつ、どう見てもアカツキじゃねえ、ですよ」
 西洋人の後ろからもう一人、男が口を挟んでくる。こちらは東洋系だった。
「んなこたあ分かってんだよ。でも死体おぶってるガキなんてどう見ても異常だろうが」
 シュノーと呼ばれた男が言い返す。二人は仲間のようだった。
 翼斗は激情に任せて人を殴ってしまった後悔と、何事もなかったかのようにそれを受け流された驚きで、少し冷静さを取り戻していた。
「……あんた誰だ。何か用かよ。俺が誰を背負ってようが勝手だろ」
 そう言った瞬間、翼斗の腹部に重い一撃が入った。呼吸ができなくなり、思わず膝をつく。
「なめた口きくんじゃねえ。てめえも死体にしてやろうか」
「ストップ、シュノー。この子供、もしかして上から来たんじゃないか? 俺たちのこと知らない、そうだ。おてまえ、何があったか話してみろ、です」
 そう言って東洋人の男が翼斗を抱き起こす。
 シュノーと呼ばれた血気盛んな男に対して、東洋人の方は言葉こそ妙なカタコトだが、落ち着いた口調だった。
「おい陸、『お手前』は『自分』って意味だよ。『おいてめえ』、な」
「ふむ。おいてまえ、おいてまえ。おてまえ、話してみろです」
 シュノーは諦めたように肩をすくめる。

 翼斗は少し逡巡したが、簡単に事情を説明することにした。
 まともな人間ではなさそうだが、賊の類ではないようだし、翼斗自身、誰か第三者に話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
 翼斗は朝からの出来事を、金庫の件だけは伏せて、かいつまんで説明した。

 説明を聞き終えると、陸と呼ばれた東洋人が口を開いた。
「それは災難だった、だな。でもこのまま見逃すはできない。アネサン……俺たちのボスにも今と同じこと説明しろ、です」
「ぼ、ボス……?」
 この二人が所属している組織の長、ということだろうか。
「なんでそんなことを? というか、その前に訊きたいんだけど、あんたたち一体なんなんだ? まさか警察ってわけでもないだろうし」
 いくら何でもこんな警察がいるはずがない。
 するとシュノーが小さく舌打ちをし、

「REVERENCEだ。この辺歩くんなら、そのくらい知っとけ」

 そう言って、ガッと噛みつくような仕草をした。

018 嵐の後

 

 と、その時だった。翼斗の腕を固めていた力が、ふいに緩んだ。
 急いでその体勢を脱して、体勢を立て直す。

 見ると、青年の正面に、いつの間に現れたのか、見知らぬ男が立っていた。

 男の手には変わった形をした大型の銃が握られており、その銃口はぴたりと青年に向けられている。
 年齢は20代半ば、くらいだろうか。グレーのモッズコートを一番上まで留めているその男は、作り物めいた、どこか不安を覚えるほどに端正な顔立ちをしていた。
 長髪をそのまま垂らし、切れ長の瞳は冷徹な光を放っている。さながら獲物に狙いを定め、今にも飛び掛かろうとする肉食獣のように。

「またアンタか、式さん。まったく、いいところを邪魔してくれるよね」
「猫がいなければ鼠が騒ぐ。派手に騒いだな、イツキ」

 ——イツキ?
 その言葉を翼斗は聞き逃さなかった。

 イツキと呼ばれた青年は翼斗をちらと見て、
「あーあ、名前まで呼んじゃって。バレちゃったじゃん」とつまらなそうに言った。

 イツキ。下層に隠れ潜んでいるという噂の連続殺人犯。連続自殺犯。
 先ほど翼斗とその存在について言葉を交わしたばかりのこの青年に対して、長髪の男は確かに「イツキ」と呼んだ。
 目の前のこの青年が、二人を運んできたこの人の良い男が、あのイツキだというのか?

 ——用心した方がいい。君たちは特に。
 青年の言葉を思い出す。

 長髪の男は翼斗と横たわる刹那に目をやると、
「そこの少年。何があったかは知らんが、すぐにここを離れろ」
 そう言いながら、引き金を引いた。
 ドシュンッ!という派手な音とともに、銃口から球のようなものが飛び出す。
 イツキは身を捻ってそれを避ける。弾はそのまま反対側のコンクリートの壁に当たり、轟音とともに壁を砕いた。あんなものが当たったら骨が粉々になるだろう。しかしイツキは動じる様子もない。
「そんなすっとろい弾に当たるわけないってのに。しつこいね」
「ふん」
 撃った男の方が苛立たしそうな声を出した。銃身を立てると、太い針のようなものが銃口に刺さっている。かわした瞬間に投げたのか。翼斗は銃に詳しいわけではなかったが、あの状態では撃てないだろうということは想像できた。

 イツキは翼斗の方を向くと、
「ヨクトくんだっけ? 邪魔が入ったから、続きは今度にしよう。まあ僕も君の邪魔をしちゃったわけだけどね。ああ、お詫びといっちゃなんだけど、アドバイスだ。さっきの奴に追われてるならその腕輪は外した方がいいよ。居場所がばれるからね」
 そう言い残し、その場を去ろうとする。

 腕輪……WHDのことか?

「待てよ! 父さんと母さんを殺したのは、お前じゃないのか!?」
 気力を振り絞って、イツキの背中に大声で問いかける。
 イツキには自分たちから接触したのだから、論理的に考えればその可能性が低いことは自明である。しかしそれを言ったら、そもそも今の状況に論理性の欠片もないのだ。
「なんだいそれ? 殺すとか物騒だなあ。僕は知らないよ」
 その声から、嘘の色は感じなかった。
「逃がさん」
 銃口から針を抜き、長髪の男がイツキの後を追おうとする。その時——

 翼斗たちが乗ってきたフォークリフトがいきなり爆発した。

「ぐっ!」爆音と爆風の衝撃で、翼斗も長髪男も倒れ込む。
「あはは、お大事に。じゃあまたね」そう言ってイツキは走り去っていく。
 最初からフォークリフトに爆薬を仕掛けていたのだろう。エレベータでも爆破するつもりだったのだろうか。
 ドシュンッドシュンッ。
 長髪男がイツキの逃げた方向へ撃つが、手ごたえはない。
「逃がさん」
 そう言ってイツキの後を追いかけていく。銃声と足音が次第に遠ざかっていき、聞こえなくなった。

 

 エレベータ前の空間は静寂に包まれた。
 爆音がまだ耳に残っている。倒れたフォークリフトからはまだ煙が立ち昇っていた。
 一人残された翼斗は、しばらく突っ立ったままで呆然としていた。喋る者も、動く者もいない。先ほどまでの騒ぎが嘘のようだった……嘘であってほしかった。
 まともな思考ができそうになかった。頭もズキズキ痛む。
 震える身体を無理やり動かし、ふらふらとした足取りで妹のもとへ歩み寄る。そうしようと思ったのではなく、身体が勝手に動いたのだ。
 まるで世界で唯一その場所にしか救いが無いかのように、吸い寄せられるように妹の傍まで行くと、崩れ落ちるように両膝をつく。冷たいコンクリートの床に小さな血だまりができていた。

 ふとWHDを見ると、トンネルの奥でも電波は届いているようだった。
 居場所がばれる、とイツキは言っていた。
 敵が翼斗か刹那のWHDの位置情報を追跡していたとでもいうのか。そんなことが可能なのか。少なくとも、言われるまで考えもしなかった。
 WHDを操作し最新のニュースを探す。すると一つの記事の見出しが目に入った。

『研究者夫婦が高速道路で事故死、運転ミスか』

 翼斗は少しの間その記事を読んでいたが、WHDを腕から外して放り投げると、刹那のWHDも外しにかかった。
 刹那は安らかな顔をしていた。眠っているみたいだった。
 口についている血を指で拭う。
 もしかしたら、本当に眠っているのかもしれない。
 いつものように叩き起こしてみようか。あるいは遅刻するぞと耳元で叫んでみようか。そうしたらまた間抜けな声を出すだろうか。まだ眠いから寝かせろと文句を言うだろうか。
 それとも、死んだふりをしているのかもしれない。
 追っ手はもういないぞと耳元で囁いてみようか。飛び起きて「作戦成功!」などと言って笑ったりはしないだろうか——

 少年の虚ろな視界の片隅で、お守りの花が血に濡れてその輝きを失っていた。

 

017 闖入者

「…………刹那」

 刹那はぴくりとも動かなかった。
 気を失ったのではなかった。大切な何かが消えていた。
 刹那の肉体に宿っていたあらゆるものが、永遠に失われたのだと分かった。
 喪ったことを悟った。
 嘘みたいにあっという間だった。

 何も感じなかった。脳が思考を停止していた。
 指一本動かない。自分の身体が、すべての活動を放棄したかのようだった。
 動きたくなかった。考えたくなかった。認めたくないから。
 動いてしまったら、考えてしまったら、きっとこれが現実になってしまうから。

「おい」
 男の低い声が聞こえた。
 この世の物とは思えないほどに不快な声だった。
「恨むなよ。俺は外すつもりだった。そいつが自分から飛び込んできたんだ」
 たいしたタマだ、と男は言った。
 他人事のように。
「お前はこのまま連れて行く。お前まで逃したんじゃ、俺が消されるからな」
 立て、と翼斗に銃口を向ける。
 翼斗は、刹那の身体を静かに横たわらせると、よろよろと立ち上がった。
「よし、ついてこい。っと、その前にもう一人いたな。さっきのやつはどこだ?」
 エレベータの前にいた青年が、いつの間にか姿を消していた。
 男は辺りに目を配らせる。
 常に周囲に注意を配っていた。音もなく、気配も悟られずに逃げられるはずはない。
 エレベータはすでに到着していたが、その中にも青年の姿は見えなかった。
「どこへ隠れた! ……おいお前、ちょっと待ってろ。そこから動くなよ」
 男は青年の発見を最重要事項と考え、翼斗から銃口を外した。
 翼斗にはもう抵抗する気力はないと判断したのだった。

 しかし、その認識は甘かった。
 翼斗が突然、男に向かって駆け出したのだ。
 男は銃口を翼斗に戻す。翼斗が正気を失っているのが分かった。命を顧《かえり》みず、激情に身を委ねている。

 ——クソガキが。
 翼斗の足に狙いをつけ、引き金を引く。

 ごきん。

 銃声ではなく、鈍く重い音がした。
 頭に鈍器で殴られたような衝撃を受け、男の身体が宙を舞った。
 優に10メートルは吹っ飛び、全身を壁に叩きつけられる。
 普通の人間なら気を失うほどの衝撃だったが、男は気が遠くなるのを堪え、すぐに起き上がった。
 ——誰が!?
 視線を戻すと、翼斗が地面に転がっている。その脇に、男を吹き飛ばした犯人であろう人物が立っていた。
 それは姿を消していた青年だった。

 青年は自分が吹き飛ばした男には目もくれず、地面に突っ伏したままの翼斗に声をかけている。
「やっぱり君、面白いな。こんな綺麗な色は初めて見たよ。最初からそんな気がしてたんだ」

 ——こいつ、何者だ。

 男はその青年に、自分とは異なる種類の異質さを感じ取っていた。
 気づかぬうちに背後に回られ、恐らく、蹴られたのだ。ただの蹴りでこんなに人の身体が飛ぶとは信じられないが、自分と同じ種類の人間ならば、あるいは。

 ——すぐに殺すべきだ。

 生命線である銃は手離していない。
 男は手足が動くことを確認して立ち上がると、青年に発砲した。
 たかだか10メートルほどの距離だが、確実に仕留められるよう、胸を狙う。
 しかし銃弾は命中しなかった。
 逆側のコンクリートの壁に、小さな穴を空けただけだった。

 かわされた。まるでSF映画のように。

「弾は当たらないよ」
 青年はこちらを向いて微笑んだ。気の置けない仲間と雑談でもしているかのように。
 男は続けて2発発砲した。どちらも当たらない。
 また2発。3発。しかしすべて外される。
 男は気付いた。青年は弾をかわしているのではない。男が引き金を引く直前に、どこに弾が飛んでくるか知っているかのように、弾道から身を外しているのだ。
 撃たされている。そんな錯覚すら覚えた。
 気付くと、弾を撃ち尽くしていた。
「いくら撃っても当たらないよ。当たる方が難しいくらいだ。弾なんて、怖がらずによく見れば簡単に避けられるんだから」
「化け物が!」
 男は諦めず、予備の弾が入ったカートリッジを装填しようとする。
「むしろ、君の方が僕のことを怖がってるじゃないか。だからほら、見えてない」
 そう言って青年は男の右側を指差した。

 ごきん。

 今度は頭の右側に強い衝撃を受け、男は地面に再び地面に倒れ込んだ。男の頭から血が噴き出る。
 金庫が入ったショルダーバッグが、男の側頭部に衝突したのだ。翼斗が右側から回り込んできていることに、男はまったく気付かなかった。
 倒れた勢いで地面を転がって距離を取ろうとしたが、翼斗もそれに追いすがり、男の顔面に思い切り蹴りを浴びせた。

 ——これ以上はまずい。ダメージを負い過ぎた。

 三度も頭部への打撃を食らった男は、朦朧《もうろう》とした意識の中で撤退を決意した。
 あの作業員風の青年と、そしてこの少年も、只者ではない。このまま続ければ自分が返り討ちになる可能性が高い。そう判断した。
 ふらつきながら走り出した男を、翼斗が鬼の形相で追おうとする。
「待ちなよ、お兄さん」
 翼斗の前に青年が立ちふさがった。
「あんな奴は放っといて、僕と遊ぼう」
「どけ!」
 翼斗は青年を無視して男を追いかけようとしたが、次の瞬間、腕を取られて地面に叩きつけられた。動きを読む間もないほどの早業だった。
「妹さんを殺されて怒ってるんだろ。すごく特徴的な色をするんだね、君」
 青年は翼斗の腕関節を固めて地面に押さえつけながら、意味の分からないことを言った。
「離せ、てめえ……! ぶっ殺すぞ!」翼斗は地面に突っ伏したままわめいた。
 青年は「いいね」と笑うと、
「感情ってのは水物でね。どんなに荒々しい波を起こしても、放っとくとすぐに凪いでしまう。君のその激情だって、いまこの瞬間だけのものだ。別に意地悪したいわけじゃないよ。ただ君をもっと怒らせたいだけだ」
 そう淡々と言った。何を言っているのか理解できなかった。
「うん、純度が高い。素晴らしいね。普段は感情を出さないタイプだろ、君?
 分かるんだよ。よし、せっかくだから他の色も見てみようかな」
 青年は関節を固めている腕に力を込めた。激痛が走り、思わず声をあげる。

「腕と足を折るよ。憎き敵を逃がした上に、追いかけることすら出来なくなったら、どんな色を見せてくれるのかな」

 その声色から、脅しではなく本気だと分かった。
 力が加わる。翼斗の腕関節は限界を超えていた。
 折られる——

016 刹那に滲む翠色

 

 両親との電話。二人の声がフラッシュバックする。

『愛してる』母の声。
『刹那を頼む』父の声。

 心臓の鼓動が速い。しかし身体は金縛りにあったかのように、指一本動かなかった。
 死んだ? 父と母が?
 隣にいる刹那に目をやると、青ざめた顔で固まっていた。見たこともないほど濃い紫色を漂わせて。
 叫び出したいのをギリギリで我慢しているような、全身を繋ぎとめる細い糸が切れないよう必死で堪えているような、そんな表情だった。見ていたくなかった。

 ――嘘だ。
 こいつは嘘をついている。自分たちを動揺させようとしているのだ。
 混乱に身を委ねてはだめだ。理性を手放してはだめだ。
 父も母も死んではいない。
 逃げなくては。刹那を守らなくては。
 その時、朝の電話で耳にした父の言葉を思い出した。

『中にある物は、いざという時まで使うな』

 翼斗は手の中に隠し持っていたアンプルを、迷わず自らの腕に刺した。ラベルに“2”と書かれたアンプルだ。
 父がわざわざ持っていけといった金庫に入っていた、唯一の物。
 それだけで十分だった。
「何をしてる! 余計な動きを見せたら撃つ!」
 男が銃口を突きつけ威嚇する。
 しかしその脅し文句は、翼斗には届いていなかった。

 ——死んだ。

 そう錯覚するほどの衝撃を、翼斗は受けていた。
 めまいとともに音と光が消えた。一瞬遅れて頭痛に襲われる——激痛。
 脳に強力な電流を流されたようだった。意識が肉体から剥がされるような感覚に襲われる。
 徐々に衝撃は収まり、音が戻り、視界が開けていく。
 先ほどまでと同じ景色が見える。銃口を向けてくる敵。薄暗いトンネル。不安そうに翼斗を見つめる刹那。
 自分は倒れたのではないかと思ったが、身体は微動だにしていなかった。
 しかし一つだけ、変化していることがあった。

 相手の思考が、読めた。

 

 

 翼斗は戸惑っていた。
 相手がいま何を考えているのかが、直感的に分かるのだ。
 といっても、エスパーのように、言葉で読み取れるわけではない。色を感じるのと同様に、脳が直接感じている。相手の考えていることがイメージとして伝わってくるのだ。
 先ほど打ったアンプルの影響であることは間違いない。

 しかし。
 それ故に、翼斗には分かってしまった。
 この男が先ほど言ったことが、真実であると。

 ――お前たちの両親はもう死んだ。

 翼斗は目の前が深紅色に染まるのを感じた。

「とっととしろ、ガキ。依頼人からは殺してもいいと言われてるんだ」
 男が、あくまで無表情に淡々と、しかし有無を言わせない口調で言う。その声に、引き金を引くことに何のためらいも感じない冷徹さを滲ませていた。
 しかし翼斗には分かっていた。
 この男には、撃つつもりはない。殺すだなんて真っ赤な嘘だ。
 撃つとしても威嚇だけで、当てる気がない。
 それならば——勝てる。
 今の自分なら、引き金を引く瞬間すら感じ取れる。
 そこで隙を突けば、確実に自分が先に攻撃できるはずだ。

 翼斗は金庫の入ったショルダーバッグのストラップを握りしめた。
 弾道から外れる最短のルートで距離を詰め、ショルダーバッグで思いきり殴る。
 それで勝てる。

 ――勝つ。父と母の命を奪ったこいつに。
 ――さあ引き金を引け。引けよ早く。
 ――よし、引くぞ。
 ――2、1。
 ――今だ。

 

「っ!?」

 何が起きたのか、理解できなかった。
 乾いた発砲音と同時に、視界が弾け飛んだ。
 右肩から叩きつけられる衝撃を受け、地面に倒れたのだと分かった。
 左から突き飛ばされた!
 ――誰に?

 不吉な予感に、すぐ身を起こし振り返る。
 そして予感の的中を知った。

 刹那が倒れていた。

 

 

 声にならない叫びを上げていた。
 名前を呼んだつもりが、言葉になっていない。それが自分の声なのかどうかも怪しかった。追っ手の男のことなど頭から吹き飛んでいた。
 刹那の元に駆け寄る。
 横向きに倒れている刹那の上半身に、赤い色が染みわたっていくのが目に入る。
 撃たれた。刹那が撃たれた。
 刹那を抱き起こし、何度も名前を呼ぶ。
 刹那が苦しそうに喘ぎながら、少し目を開けた。
 生きている!

「刹那! 刹那!」何度も呼びかける。
「…………に」
 刹那は何かを言おうとしたが、そこで咳込んだ。血が飛ぶのが見えた。
「しゃべらなくていい! すぐ病院に連れていくから!」
 助けを呼ばなくては。
 刹那が助かるなら、もう捕まってもいい。
 翼斗が撃たれると思って、恐らく反射的に突き飛ばしたのだ。命を懸けて。
 絶対に死なせない。
 その時、刹那が翼斗の袖を掴んだ。
「…………」
 何かを伝えようと、口を動かしている。
「刹那!? どうした!」
 とっさに、刹那の口に顔を近づけた。聞かなくてはならない気がした。

「父さん、たちのこと、ほんとかな」
 一呼吸ずつゆっくり、そう言った。

「嘘に決まってるだろ。絶対生きてる。また会えるから、俺が会わせてやるから」
 そう言うと、刹那は微笑んだ。
 痛みを感じていないのか、苦しそうな様子はなかった。
 その頬笑みに、ぼんやりと淡い緑色が浮かんできた。
 緑色は、信頼の色。親愛の色。感謝の色。
 翼斗の視界が滲んだ。慌てて目を拭う。
「刹那、大丈夫だから」
 何を言ってるんだ俺は。何が大丈夫なんだ。もっとマシなことが言えないのか?
 なんだよこれ。なんで刹那がこんなに血を流してるんだ。なんで俺じゃなくて刹那が。
 ついさっきまで呑気に笑い合っていたのに、なんで。

「兄ちゃん」

 今度ははっきりとした口調で、しかしかすれた声で、翼斗を呼んだ。

「そんな顔しないで、笑って。
 兄ちゃんが笑ってると、落ち着くんだよ、なんでかな」

 刹那の身体から、力が失われていくのが分かった。
 それとは逆に、緑が強く、濃くなっていく。
 笑う? 笑うだって? こんな時になにを言ってるんだ。
 落ち着くってなんだよ。落ち着いてる場合じゃないだろ。落ち着いてどうすんだよ。
 そんなことより血が。血を止めなきゃ。血を――

「兄ちゃん、わらって」

 その時、不可解なことが起きた。
 翼斗は自分の意識が、ほんの束の間、飛んだように感じた。
 怒りや悲しみや混乱のあまりに気を失ったのではない。
 無限を感じさせるほどに広大な場所から、何者かの意識が翼斗の中に入り込んできたようだった。

 ――意識が戻る。

 自分がどんな顔をしていたのかは分からないが、笑うなんてとても出来ないと思った。
「刹那、刹那」
 馬鹿みたいに、繰り返し名前を呼ぶことしかできなかった。

 しかし、刹那は笑った。
「ありがと、兄ちゃん」

 刹那の身体から力が抜け落ちた。

 滲んだ視界一面に広がっていた緑が、かき消えた。