018 嵐の後
と、その時だった。翼斗の腕を固めていた力が、ふいに緩んだ。
急いでその体勢を脱して、体勢を立て直す。
見ると、青年の正面に、いつの間に現れたのか、見知らぬ男が立っていた。
男の手には変わった形をした大型の銃が握られており、その銃口はぴたりと青年に向けられている。
年齢は20代半ば、くらいだろうか。グレーのモッズコートを一番上まで留めているその男は、作り物めいた、どこか不安を覚えるほどに端正な顔立ちをしていた。
長髪をそのまま垂らし、切れ長の瞳は冷徹な光を放っている。さながら獲物に狙いを定め、今にも飛び掛かろうとする肉食獣のように。
「またアンタか、式さん。まったく、いいところを邪魔してくれるよね」
「猫がいなければ鼠が騒ぐ。派手に騒いだな、イツキ」
——イツキ?
その言葉を翼斗は聞き逃さなかった。
イツキと呼ばれた青年は翼斗をちらと見て、
「あーあ、名前まで呼んじゃって。バレちゃったじゃん」とつまらなそうに言った。
イツキ。下層に隠れ潜んでいるという噂の連続殺人犯。連続自殺犯。
先ほど翼斗とその存在について言葉を交わしたばかりのこの青年に対して、長髪の男は確かに「イツキ」と呼んだ。
目の前のこの青年が、二人を運んできたこの人の良い男が、あのイツキだというのか?
——用心した方がいい。君たちは特に。
青年の言葉を思い出す。
長髪の男は翼斗と横たわる刹那に目をやると、
「そこの少年。何があったかは知らんが、すぐにここを離れろ」
そう言いながら、引き金を引いた。
ドシュンッ!という派手な音とともに、銃口から球のようなものが飛び出す。
イツキは身を捻ってそれを避ける。弾はそのまま反対側のコンクリートの壁に当たり、轟音とともに壁を砕いた。あんなものが当たったら骨が粉々になるだろう。しかしイツキは動じる様子もない。
「そんなすっとろい弾に当たるわけないってのに。しつこいね」
「ふん」
撃った男の方が苛立たしそうな声を出した。銃身を立てると、太い針のようなものが銃口に刺さっている。かわした瞬間に投げたのか。翼斗は銃に詳しいわけではなかったが、あの状態では撃てないだろうということは想像できた。
イツキは翼斗の方を向くと、
「ヨクトくんだっけ? 邪魔が入ったから、続きは今度にしよう。まあ僕も君の邪魔をしちゃったわけだけどね。ああ、お詫びといっちゃなんだけど、アドバイスだ。さっきの奴に追われてるならその腕輪は外した方がいいよ。居場所がばれるからね」
そう言い残し、その場を去ろうとする。
腕輪……WHDのことか?
「待てよ! 父さんと母さんを殺したのは、お前じゃないのか!?」
気力を振り絞って、イツキの背中に大声で問いかける。
イツキには自分たちから接触したのだから、論理的に考えればその可能性が低いことは自明である。しかしそれを言ったら、そもそも今の状況に論理性の欠片もないのだ。
「なんだいそれ? 殺すとか物騒だなあ。僕は知らないよ」
その声から、嘘の色は感じなかった。
「逃がさん」
銃口から針を抜き、長髪の男がイツキの後を追おうとする。その時——
翼斗たちが乗ってきたフォークリフトがいきなり爆発した。
「ぐっ!」爆音と爆風の衝撃で、翼斗も長髪男も倒れ込む。
「あはは、お大事に。じゃあまたね」そう言ってイツキは走り去っていく。
最初からフォークリフトに爆薬を仕掛けていたのだろう。エレベータでも爆破するつもりだったのだろうか。
ドシュンッドシュンッ。
長髪男がイツキの逃げた方向へ撃つが、手ごたえはない。
「逃がさん」
そう言ってイツキの後を追いかけていく。銃声と足音が次第に遠ざかっていき、聞こえなくなった。
エレベータ前の空間は静寂に包まれた。
爆音がまだ耳に残っている。倒れたフォークリフトからはまだ煙が立ち昇っていた。
一人残された翼斗は、しばらく突っ立ったままで呆然としていた。喋る者も、動く者もいない。先ほどまでの騒ぎが嘘のようだった……嘘であってほしかった。
まともな思考ができそうになかった。頭もズキズキ痛む。
震える身体を無理やり動かし、ふらふらとした足取りで妹のもとへ歩み寄る。そうしようと思ったのではなく、身体が勝手に動いたのだ。
まるで世界で唯一その場所にしか救いが無いかのように、吸い寄せられるように妹の傍まで行くと、崩れ落ちるように両膝をつく。冷たいコンクリートの床に小さな血だまりができていた。
ふとWHDを見ると、トンネルの奥でも電波は届いているようだった。
居場所がばれる、とイツキは言っていた。
敵が翼斗か刹那のWHDの位置情報を追跡していたとでもいうのか。そんなことが可能なのか。少なくとも、言われるまで考えもしなかった。
WHDを操作し最新のニュースを探す。すると一つの記事の見出しが目に入った。
『研究者夫婦が高速道路で事故死、運転ミスか』
翼斗は少しの間その記事を読んでいたが、WHDを腕から外して放り投げると、刹那のWHDも外しにかかった。
刹那は安らかな顔をしていた。眠っているみたいだった。
口についている血を指で拭う。
もしかしたら、本当に眠っているのかもしれない。
いつものように叩き起こしてみようか。あるいは遅刻するぞと耳元で叫んでみようか。そうしたらまた間抜けな声を出すだろうか。まだ眠いから寝かせろと文句を言うだろうか。
それとも、死んだふりをしているのかもしれない。
追っ手はもういないぞと耳元で囁いてみようか。飛び起きて「作戦成功!」などと言って笑ったりはしないだろうか——
少年の虚ろな視界の片隅で、お守りの花が血に濡れてその輝きを失っていた。